夢やビジョンの危うさ

別に夢やビジョンを持つことが悪い、という記事ではないのであしからずw

ブログを開設してから1週間。友人からこんなメッセージが来た。

「なんでブログはじめたの?」

正直、う~んってなった。 だって、理由ないからw とりあえず、「ノリと勢い」とは回答したけど、正直理由がない。というより、頭でこねくり回した、何かをやるための理屈がないという感じ。

この感覚。私も少し前はそうだったが、何かをやるとき、新し事にチャレンジする時、大義名分というか、理由というか、意味というか。そういう理屈がないと何かを始めようとしなかった。社会のためにとか、業界のためにとか、特定の誰かのためにとか。もちろん、社会一般的に、思考で理解したいと思う人が多いというのは理解しているので、説明には便利だと思うのだが、実はこれ自分の可能性を制限しているのではないかと感じるようになってきた。

私は、この何かをやるときにする理屈を作ることを、やることの正しさを証明する「正当化」や、それをやらなくていいと自分を納得させるための「言い訳」によく使っていることに気づいた。まあ、今となっては、やってもやらなくてもいいのですがw

そう。頭の中で、「○○のために」とか、「○○が強みだから」とか、「○○になりたいから」とか、こねくり回した後づけの理屈が、自分の可能性を制限していると最近感じるようになったんだよね。何回も言うけど、夢やビジョンを持つことが悪いと言っているわけではないw 頭でこねくり回した夢やビジョンに自分自身が縛られていないか?ということ。

自分でこねくり回して作った夢やビジョンなのに、そこに縛られ何ためにやっているのかわからなくなり、強制的にがんばるか、あきらめるしかなくなってしまう。そして、いつしか自分はダメだモードに突入w まあ、うまくいったと感じている人は、オレはすごいんだモードに突入w なんじゃこれ?w

なんじゃこれな下堂薗元

まあ、社会的に意義があることをやっていると自分で思っていると、ある種の満足感・安心感みたいなものがあるのも理解しています。私がそうだったから。

何か、そんな頭でこねくり回した理屈で自分の道、人生、やりたいことを決めるよりも、自分の肚からというか、心の赴くままにというか、これだっという直観というのか。つまり、理屈なく体が反応したものをやっていく、積み重ねていく感覚を磨いていくことの方が、ありなんじゃないか?と私は思うわけです。

だから、夢やビジョンを重視しすぎなくてもいいんじゃないかなぁ~ やりたいことをやっていくと、その先に自分が本当に経験したいことが待っている感じ。その経験をすると、あああああ~生きてる~って感じになるw

まあ、夢やビジョンを持っても持たなくてもどっちでもいいけど、頭・思考=過去の記憶の延長線上に夢やビジョンを持っても、それは周りの期待や社会的な規範から作られたもので、本当に自分の願いじゃないのではないか?と。

自分に還ろう。