「娘が嘔吐した」ことを分析して、原因を探ること

昨夜、娘が夜中に嘔吐した。万里子と二人で、すぐに嘔吐物を処理し、娘をお風呂に入れて一件落着。その時に、万里子との会話から気づいたこと。

娘をお風呂に入れ、ひと段落したときのこと、「なんで吐いたんだろう?」と二人で会話になった。私は「食べ過ぎなんじゃない?」、万里子は「嘔吐下痢かな?」と。まあ、どこにでもある夫婦の会話である。

その日、娘はいつも以上にバクバク夕飯を食べていた。そのことから、私はこれが原因なんじゃないかと考えた。万里子は、最近娘が嘔吐下痢っぽい症状を見せていたため、嘔吐下痢なのではないかと考えた。ごく普通の会話である。

その後、すべてが片付き布団に入ったときに、気づいたことがあった。娘が嘔吐したことの原因は、結局本当のところはわからないw 食べすぎなんじゃないかとか、嘔吐下痢なんじゃないかとかは、我々の推測に過ぎないということだ。もしかしたら、精密検査をすればわかるかもしれない。しかし、本当のところは、誰にもわからないのではないか。

なのにだ。なんで私は、娘の嘔吐の原因を探ろうとしたのだろうか?

私の内側で浮かんできたのは、目の前の状況を納得し、安心したかったからということ。ゆっくり眠りたかったw しばらくは、この状況に自分自身が囚われていた。

深夜寝ているときに、突然娘が嘔吐しはじめた。私の内側は、慌てていたし、焦っていたし、何とかしなきゃという考えに囚われていた。なので迅速に対応したのであるが、その後上がってきたのは、なぜ?という問い。娘の体調が心配なだけに、原因を探ろうとした。

ココかなと感じた。「娘の体調が心配で、原因を探ろうとした。」

娘の体調が心配でというくだりは、実は自分の中の不快な感じが嫌で、それを解消しようとして、何とか自分がとりあえず納得できる原因を特定して、安心したかったのではないか?ということ。つまり、原因不明のまま、ただ娘が吐いたという事態のまま、認識するのが不快だったからなのではないかと。理解できない状況をそのままにしておくことは、不安でしょうがないのだ。

事実としては、「娘が深夜に嘔吐した」以上である。そこに、あれやこれやと分析したがる。それは、自分が不快だから。もっというと、自分の親としての存在価値が脅かされたからとも感じる。無条件に反応したのだ。

これが良かったとか、悪かったとか論じたいわけではなく、これ日常でもよくやってるよな~という気づき。

目の前で起こることを、そのまんま受け入れられない。特に、自分の内側が反応することについて。それは、人間関係であれ、なんであれ。目の前の状況も、内側の反応も、そのまんま受け入れて、内側に持ち続ける。不快な反応があってもそのまんまにしておく。自分の不快だという反応をありのまま受け止める意志の力。

そんなことを感じた昨夜でした。