株式会社下堂園の創業の地 高麗町

1954年に私の祖父・下堂薗實と祖母・ユリが立ち上げたお茶屋さんは、鹿児島市高麗町にあるお店で産声を上げた。創業時の名前は下堂薗茶舗。キャッチアップ画像の向かって左側の男性が祖父。こちら側を向いて接客しているのが祖母である。

 

下堂園の創業者の祖父と祖母

創業前、祖父は農業指導員として働いていた。農家さんにお茶の育て方、製造の仕方を指導していたのである。で、お茶の加工技術に自信があったらしく、その職人としての腕を頼りに独立したと聞いている。祖母はと言うと、根っからの商売人で祖父の独立前から、現在らさら荒田店がある場所で自分で店を開き、お客さんにお茶を売っていたそうである。ちなみに、現在の下堂園の強火の焙煎方法は、このころ繁盛していたお茶屋さんのお茶の味を研究し祖母の提案ではじまったと聞いている。

これは、父から聞いた話であるが、お店に立っている祖母と電話口の祖父はよくケンカしていたという。当時は、祖父がお茶を作り、それを祖母が作るという役割。で、電話口で、「こんな茶売れるかっ!」と祖母が怒鳴っていたというw また、祖父は茶の栽培、加工の技術オタクみたいな感じだったらしく、家に農家さんを呼んでは、夜遅くまで焼酎を飲みながら茶の技術について、ずっと話をしていたそうだ。

 

若き日の下堂園創業者の下堂薗實

また、祖父は営業をしない人だったそうだ。「良いものを作っていれば、買いに来てくれる」が口癖で、社訓は「今日の品を売って、明日の信用を買え」である。まさに、腕に自信があり、職人気質の祖父らしい感じ。ちなみに、キャッチアップ画像の向かって右に立っている方は、いまだにお取引のある福岡のお茶屋さん。写真に写っているということは、わざわざお茶を買いに来ていただけたのだろう。

職人の祖父と商売人の祖母。その二人が商売をはじめたのが、この高麗町。2015年に閉店して以来、今ではそのままになっている。幼少期の頃、遊び場だったこのお店がしまっているのは、個人的に寂しい。

この店、最盛期には、1店舗で2億以上売り上げていたという。その一因が、この高麗町。昔は、大島紬の機織り工場が周辺にたくさんあったんだそうな。その機織り工場で働いている織子さんは、奄美群島出身の方が多く、盆正月に帰省する際にたくさんのお茶を買っていただいたと祖母から聞いたことがある。

 

下堂薗ユリ

何よりもこのお店が繁盛した一番の理由は、祖母の存在だと感じている。いまだに周りの方から祖母の話をよく聞く。「茶飲んで行かんね」と声をかけられ茶をごちそうになったとか。「茶飴持っていかんね」と飴をもらったとか。お店の前を通ると、店の中から祖母は通行人に声をかけていたそうだ。そして、茶を売るわけでもなく、ただただ茶を飲みながら話をする。そんな店は、繁盛していたそうだ。

そんな繁盛店も、機織り工場がなくなり、商店街だったお店の前の通りも店がどんどんなくなっていき、いつしか車の抜け道に変わっていた。

 

高麗町リノベーションプロジェクト

昨年末のプロセスから、私はこのお店で何かやりたいという思いがムクムクと湧いてきた。まだ、何をやるかは全く未定w 今から、何が起こるか楽しみ。