好き嫌いなく食べれることは、正しいこと?

先日、万里子と話しているとき、こんな会話になった。子供が学校で、レバーを食べられなくて、食べるまで居残りさせられて、泣きながら食べたと。

私にも小学校の時に、経験がある。私は、ミニトマトが大嫌いでどうしても食べられなかった。パンに挟んで食べようとしたり、友達が食べてくれたり。だけど、どうしても食べられなかった。ケチャップとトマトソースは好きなのにw

なので、昼休み返上で居残りで食べさせられた経験がある。遊びたいのに、遊べない。どれだけミニトマトを恨んだことかw 大人になった今でも、ミニトマトは好きではない。食べれないことはないが、好んで食べない。子供の頃の記憶が影響しているのか、どうでもいいが、好んで食べない。だが、私はちゃんと身体だけは大人になったw

小学生の頃の下堂薗元

レバーを食べれなかった子が、可哀そうだとか、情けないとか論じたいわけではなく、そもそもの、この食べたくない食べ物を無理やり食べさせるというのは、何なんだろう?ということ。

どんな意図から好き嫌いをなくそうとしているのだろうか?何でも食べることが、本当にその子の成長にとって、必要なことなのだろうか?まあ、それがその子にとって必要な経験であると観れば、どうでもいいのだが。

ただ、何でもできることをゴールとしすぎなのではないか?私は何でもできるは、何にもできないと同じであると感じるけど。まあ、何でもできるって、なんだよ!という感じだけどねw

いいじゃないですか。好き嫌いがあって。好きだから没頭できることがあるわけだし。食べたいものを食べればいいし、遊びたければ遊べばいい。

「正しさ」を立ち上げると、どこかに必ず「正しくない」が立ち上がっている。好き嫌いなく食べれることは「正しい」、という論理で子供と接すると、必ずどこかに「正しくない」が発動していると思うのだ。もしかしたら、それは子供にとって、必要でないメッセージを送ることになるのではないか?そう、君たちは「正しくない」というメッセージを。自分は正しくないのではないか?、悪いんじゃないか?、間違っているのではないか?、能力がないのではないか?。本当は、そんなことないのに、こんな思いを子供の中に植え付けてしまうことになるのではないか?

「正しくない」という無意識のメッセージを受け取り続けた子供は、どんな風に成長するのだろうか?

時代も時代だからさ、そろそろいいんじゃないですか。こういうの。

自分のありのままを生きられるようになると、他人のありのままも受け入れられるようになる。

まずは、自分を生きよう。そして、自分に還ろう。