見た目がきれいな野菜と私

万里子が先日、「この野菜きれいでしょ~、安かったのよ~」と言って、自ら買った野菜を私に見せてきた。なんだか、この野菜、自分にそっくりだなと思ったw

種の操作と雄性不稔

そもそも、きれいな野菜=良いという価値観になっている。きれいな野菜とは、見栄えが美しいということ。つまり、個性がない。それには、ちゃんと理由がある。

まず、農作物が均一に安定して生産できるように、雄性不稔といって、植物が男性性をもたないので、子供ができない種から野菜ができているから均一で美しい野菜になるのだ。このあたりは、人間ではまだ行われていないが、農業の世界では遺伝子操作がすでにあたりまえになっている。自然に考えればわかるが、植物としては種を残したいので環境に対応できるようにさまざまな個性を持った種を産み落としたいはずである。そうした方が生存確率が上がる。人間に一人として自分と同じ人がいないのと同じだ。

しかし、これは野菜を生産、販売、消費する人間にとっては、とても不都合なのである。安定して生産できないし、人が買ってくれるように美しく均一な野菜にはならないからだ。そこで種をいじる必要がある。種をいじると、種メーカーは儲かる。安定して生産できる種を供給するかわりに、雄性不稔で自分たちで種を採取できないので、農家さんは種をメーカーから買い続けるしかない。種を自家採取すればよいが、かなりの労力と手間がかかる。

食を選択するということ

そして、農薬と肥料。現代の農業では農薬と肥料を使わないと、生産性が高く高品質の野菜ができないと思われている。ちなみに、この高品質な野菜が、きれいで均一な野菜というわけだ。

農薬と肥料の話は、次回に譲るとして、この野菜が私と似ていると思った理由。の前にw、別に種を操作された野菜が悪いと言っているわけではない。前述の万里子が買ってきた野菜も、サラダにして美味しく食べた。悪いから食べないとなると、明日から私は食べるものがなくなるw まあ、それぐらい食卓は、人の都合によって彩られている。それが長い目で見てどんな影響を及ぼすかの前に、欲を満たすこと、利益を上げることを優先させて食卓が出来上がっているのだ。それを知って食するのと、知らないで食するのでは大きな違いがある。知らないで食べるのではなく、自分で選択して食するというのが大切であると私は感じる。

見た目がきれいな野菜と私

で、私と似ているなと思ったのは、外側きれいにして、中身空っぽという話。別に自分を卑下して、否定しているわけではない。野菜の美しさと同じように、仕事ができるように見せたりとか、かっこよくとか見せてるわりに、内側は不安や心配、恐れでまったく安心していなくて常に何かに脅かされている感じがするから、余計に外側を取り繕おうとする、という感じが野菜に似ているな~って。

幸い私は野菜のように遺伝子操作されて、同じ人が世界にいるわけではない。なんだか未来SF映画みたいになってきたw 私という存在は、この世に一人しかいない、後にも先にも一人しかいない個性的な存在なのだ。だから、外側を取り繕う必要がない。

ありのままの自分で行こう。

自分に還ろう。