本当は「やる」ことに理由なんてない。やりたいか、やりたくないかだけだ。やることに理由をつけはじめた途端、辛くなってくる

私の好きなエピソードがある。NHKで放映されていたと記憶しているが、ある駅員さんが電車でハーモニカを吹いていて、それがお客さんに好評で取材を受けるというものであった。その駅員さんが「なんでハーモニカを電車の中で演奏しようと思ったのですか?」との取材に対して話していたのが、「お客さんが喜んでくれるからです。」と答えていたのである。

私はその瞬間、「嘘だ」と心の中で声が聞こえた。もちろん、今となっては、駅員さんにとってはそうなのかもしれない。お客さんが喜んでくれるからハーモニカを演奏していると。ただ、ハーモニカを吹き始めるきっかけはそうでなかったのではないか?というのが私が直観的に思ったことだ。

だれも最初から自分がやることが人に喜ばれるかどうかは、よくわからないのが正直なところだ。大体の人は、恐れが先に立ち上がるので、たとえばこの駅員さんが私だったとしたら、「ハーモニカを電車の中で演奏するなんて、馬鹿にされないだろうか」「うまく演奏できなかたったら恥ずかしい」などなど。そんな心の声が聞こえて、だいたいは足がすくんで、自信がなくなり、やりたいと思ってもやらないものだ。

だが、この駅員さんは、ハーモニカの演奏をすることにしたのだ。で、演奏してみたらお客様んに喜んでもらえることが実感できたから、続けている。というのが真実なのではないかと私は思う。そこで、この駅員さんは、なぜハーモニカを演奏することにしたのか?というのが、ポイントなのではないかと。

それは、やりたいから。もしくは、好きだから。以上。つまり、理由なんてない。

だから、はじめられたし、続けられたし、お客様に喜んでもらえたのではないか。というのが私の推測である。

会社を経営するにしても、何かをはじめるにしても、私たちは大義名分を大切にする傾向がある。大義名分とはWikipediaによると、

行動を起こすにあたってその正当性を主張するための道理・根拠

経営でいうと、会社の理念によくある「お客様に喜んでもらうために」という大義名分である。もちろん、これが、悪いと言っているのではない。上記の駅員さんのように、結果として喜んでもらうことはあるだろう。しかし、喜んでもらうことが目的になったとたん、そこに縛られ始めた途端、自分を殺しはじめ、我慢してお客様の喜びに尽くし始め、いつしか何のためにやっていたのかわからなくなるのではないか?そもそも、喜んで働いていない。私の経験上、多くの人は、「生活のため」という働く理由しか見いだせなくなる。

やりたいこと、やってみたいことを、まずやってみてはどうだろうか。それが楽しく続けられたなら、いつしか誰かに喜んでもらえる日が来るかもしれない。そして、その誰かがお客さんになる日がくるかもしれない。

思考でこねくり回した大義名分を掲げて、正当性を主張し、頑張って生きるよりも、自分の肚に聴いてみて、やりたいこと、やってみたいことをはじめてみよう。その方が、世界が幸せになる気が私はする。