プロフィール

 

遊ぶように生きる

下堂薗 元(しもどうぞの はじめ) 1979年 鹿児島市生まれ

【2018年4月現在】

株式会社下堂園 代表取締役副社長

鹿児島中央製茶株式会社 代表取締役社長

LEGO® SERIOUS PLAY®トレーニング修了認定ファシリテーター

NLP Alliance Japan 認定 NLP EXECUTIVE TRAINING 修了

大切にしていること 「軽やかに肚を生きる」

以下、プロフィールロングバージョン

【乳児期】

小さい頃の下堂薗元

  • 1979年4月に鹿児島市で生まれる。
  • 出産予定は1979年の3月だったが、母親が3月生まれは可哀そうと思ったらしく、4月まで出てこないように頑張ったらしい。そんなことができるんだとびっくりした。
  • 出産時、母はとにかく腰が痛かったそうだ。
  • 手足が大きく、髪の毛の量が多く、髪の毛は常に逆立っていた。
  • 母乳だけでは足りず、母乳とミルクを併用して育つ。ちなみに、ものすごい量を飲んでいたらしく、祖母が心配して病院の先生に相談にいったぐらいだった。
  • 1歳と7か月の時に、株式会社下堂園の創業者である祖父が他界。

祖父母と私

【幼児期】

幼稚園の頃の私

  • 一緒に写っているのは、叔父。創業の地、高麗町のお店の前で撮影。
  • 4歳で幼稚園に入園。入園当時はいじめられっ子でよく泣いて家に帰っていた。泣いて帰ると、母に慰められた記憶が今でもよみがえる。
  • 5歳ではじめて友達ができたと認識している。
  • 6歳の頃には、隣の組と毎日のようにケンカしていた。ちなみに隣の組のリーダーは、4歳のころ私をいじめていた子だった。
  • 幼稚園の頃の遊び場は、創業の地である高麗町のお茶屋。遊び相手は、従業員さんだった。茶袋に入ったり、冷蔵庫でかくれんぼしていた記憶がある。
  • この頃母親は、贈答用の熨斗書きをしていた。総理大臣賞をもらうぐらい書道が上手たっだとか。書道が得意だった母親のススメで硬筆と書道を習うが、まったくやる気が起きず、今でも私は字が汚いまま。
  • 小学校入学までは鹿児島市武町に住んでいた。長島美術館に行く坂の途中。

【小学校時代】

小学生の頃の下堂薗元

  • 小学校入学1週間後に株式会社下堂園創業の地である高麗町のお店の前に引っ越す。
  • 祖母が、「あなたは下堂園の跡取りなんだから」と繰り返し言われた記憶がある。
  • 日曜日に昼寝をして目を覚ますと、何とも言えない虚無感に襲われていたのを思い出す。死ぬということは、どういうことなのかと考えていた。
  • 体操、サッカー、水泳、オルガン、バスケットボールなどなど(もうおぼえていない)、ありとあらゆる習い事に通っていた。
  • 水泳は、3歳から母が私の喘息を心配し、通わせはじめ見事に喘息はなくなった。水泳は10歳まで続ける。
  • バスケットボールは、水泳をやめたことにより、ブクブク太り始めた私を心配した母が、従姉が所属していたバスケットボールに通わせはじめたのがきっかけ。
  • 小学校の頃は、人を傷つけることも、傷つけられることも経験する。もうわけがわからなかった。唯一の救いはバスケットボール。人数が足りなくて試合にも満足に出場できなかったが、たんたんとランニングシュートの練習をするのが楽しかった。このころ、スラムダンクがはじまる。

小学校の頃の下堂薗元

【中学・高校時代】

高校時代のバスケットボール

  • 中学時代に社会に適合して生きることをマスター。生徒会長やバスケットボールキャプテンなど、自分が背負っている肩書や役割から学校で生活するようになる。ちゃんとしているように見せること、がんばっているように見せること。そうしないと、周りに咎められると思っていたし、自分でもそう思っていた。恐かった。だから、合わせるしかなかった。自分を偽るしか。
  • 中学から高校にかけて、心臓を突き刺すような胸の痛みがあった。病院にいっても原因不明。
  • 高校時代は、中学時代に作り上げた適合スタイルを繰り返す。ただ、勉強はまったく手につかず、途中からあきらめる。学校をさぼって一日友達と遊んだことが記憶に残っている。それぐらい当時は、学校をさぼることは私にとてタブーだったし、冒険だった。作り上げた自分を壊したくなかった。まあ、自分でそう思い込んでいただけなのだが。

【大学時代】

大学時代の下堂薗元

  • 東京の大学に進学。1年の後期から大学に通わなくなり、サークル、バイト、遊びにあけくれる。幸せだったのは、友達に恵まれたこと。それは、遊びの達人が多かったからだ。ある友人は、日曜日のNHK将棋を必ず見ていた。その、友人の将棋の説明を聞くのが何より楽しかった。今、将棋界で活躍している棋士の分析や流行りの戦術など。ある友人は、遊びを創造するのが好きで、徹夜して新しい遊びを学び、それを自分たちなりに改良することに明け暮れていた。まあ、あとは酒を浴びるほど飲んでいたぐらい。
  • 耳にピアスが5個。パイプドレッド、金髪、アフロやりたい髪型はやりつくした。だがコーンロールをやりきらなかったのが心残りだったのを覚えている。

大学の友人と

【社会人になる・静岡編】

入社当時に同僚と

  • 大学4年卒業時に、単位が6単位足りず留年。卒業旅行先のタイで帰国時に機材が調達できず、母親に帰国できないことを連絡すると、「そんなことより卒業できていない」と伝えられる。就職先に卒業できませんでしたと報告に行くと、1年待ってくれた。大学に通いながら働かないかと提案を受けるが、断った。そして、バイトとスノーボードに明け暮れる。バイトのお金をすべてスノーボードにあてていた。
  • 社会人になると配属先は研究所の農業系。ろくに大学行ってなかったけど、法学部の私が、なぜか研究所。だが未知の世界すぎて、充実していた。知らない事だらけだったから。特に東大出身の直属の上司には、すごい刺激をもらった。エクセルの使い方から、統計分析の仕方、研究データのとり方などなど、ものすごく勉強になった。上司からの一番の学びは、競輪愛。競輪を予想する時のノウハウが論理的過ぎて、面白かった。
  • 研究所がある場所が田舎すぎて、やることがなかった。だから、毎日のように寮の酒飲みの連中と飲んだくれていた。飲んで暴れすぎて、怒られることもしばしば。
  • 仕事は、設立間もない部門だったため、好きにやらせてもらったことを覚えている。ミッションがあり、それの達成のためには、何をやってもよい雰囲気だったし、理解のある上司が多かった。とても恵まれていたと感じている。このころから、未知の領域に足を踏み入れることが何よりも楽しかったのだなと、今振り返ると感じる。

社会人になった下堂薗元

【帯広時代】

  • さんざん会社の仲間たちと飲み、遊びまくっていたら、飽きてきて、数少ない娯楽施設のTSUTAYAに通い始める。そこで、「成功者の告白」という本に出会い衝撃を受ける。そこから、さまざまな本を読み漁り、経営者という生き方に興味を持ち始める。ちなみに、それまでほとんど本を読んだことはなかった。「成功者の告白」との出会いから1年後、3年勤めた会社を退社し、当時、株式会社下堂園の子会社であった「丸二藤製茶株式会社」の代表取締役として赴任することになる。
  • 就任前の丸二藤製茶は、叔父(幼児期の写真に一緒に写っている)が代表をやっていたのだが、別の事業に興味を持って、代表の席が空いている状態だった(と私は認識している)。そこで、父に直談判し、代表をさせていただくことに。
  • 私は26歳で、会社の社員さんは42~58歳で10名在籍していた。仕事は、スーパーなどへのお茶の卸売と葬儀社へ香典返し用としてのお茶と食品の詰め合わせセットを販売することだった。
  • 代表取締役就任から1年後、甲状腺腫を患い、甲状腺の摘出手術をうける。
  • その半年後、債務超過の丸二藤製茶を清算すべく、代表清算人として清算業務を行う。既存事業の営業譲渡および社員の引継を行った。

【東京時代】

  • 経営者として会社を清算し、人として死に目をみて、失意のなか東京にひきこもるようになる。東京には当時、株式会社下堂園の営業所があり、そこを自宅兼事務所としていたが、営業活動はせず、ブラブラしていた。今、振り返ってみると、引きこもりだったと思う。ちなみに、このころの肩書は「専務取締役」。最初の仕事は、会社の借入金の連帯保証人の欄にサインをすること。2つの借入金の書類にサインしたのだが、合計13億円だった。何回も0の数を数えたのを鮮明に覚えている。
  • このころから、もしかしたら自分が原因かもしれないという思いに囚われはじめる。それが、セミナージプシーとなる引き金となったと、いまは感じている。
  • 1回目の結婚をし、東京で生活をはじめたのもこの頃。

【鹿児島に帰る】

  • 東京でブラブラしていたといっても、株式会社下堂園のさまざまな商品開発および事業をスタートさせていた。その流れで鹿児島に戻ることに。この頃、5年間の結婚生活にピリオドを打つ。

【新しい事業・商品を次々と開発する】

【組織内に変化を起こそうと社内の仕組みを変える】

【採用と人材教育をはじめる】

【組織と人材の開発をやめる】

【採用を続ける】

【何かのために生きるのではなく、自分の魂を生きることを覚悟する】

【鹿児島中央製茶株式会社の代表取締役に就任する】